ふたば会 Official Homepage【花柳流 日本舞踊】花柳流について

Nihon buyo Futaba-kai Official Homepage  花柳流日本舞踊

バナーふたばかい.jpg

HOME > ふたば会とは > 花柳流について

花柳流について

花柳流は、日本舞踊における五大流派(花柳・西川・藤間・坂東・若柳)日本舞踊の流派において最大とされています。
1849年(嘉永二年)もともと四世西川扇蔵の門弟であった西川芳次郎が、新たに「花柳」と改姓し興した流派です。
「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが1849年であり、この頃に花柳流が成立したと考えられております。翌年に芳次郎から寿助に改名し、更に1860年に寿輔と改名しました。
「花柳」という名前の由来には諸説ありますが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けられたという説が有力です。

花柳寿楽・典幸のルーツ

花柳 錦之輔(二世)

1941年 祖父の長男として生まれた父は4歳のころから日本舞踊の手ほどきを受けました。
1965年 二代目花柳錦之輔を襲名。
1987年 『花咲く春』の舞台の後病気加療のため入院しましたが、翌1988年亡くなりました。

日本舞踊は奥が深く、三十代までは駆け出し扱いで、四十代でやっと中堅と呼ばれ、五十~六十代がもっとも踊り盛りだろうといわれています。父は自分の踊りを大成することなく、五十歳を目前に亡くなりました。そのことが、いまも惜しまれます。
ただ父がその晩年になって踊った『保名』(やすな)、『二人椀久』(ににんわんきゅう)などは、記憶に残る舞台になりました。祖父や父の後を継いで日本舞踊家になりましたが、祖父、父を目標に踊っていきたいと考えています。また、父は商業演劇の振付(ステージング)で大きな足跡を残しました。蜷川幸雄さんが演出された『王女メディア』、『テンペスト』、『近松心中物語―それは恋』などや、宝塚歌劇団の『永遠物語』など、父が振付を手がけた作品のいくつかは、いまも舞台にかけられています。

photo_kinnosuke.jpg

花柳 錦之輔(二世)アルバム
写真をクリックすると拡大されます

烏小町.jpg
松の翁.jpg
保名.jpg

花柳 壽楽(二世)

1918
講釈師錦城斉典山の次男として生まれる。
1932
義兄の二代目花柳壽輔(のち壽應)に入門。
1937
六代目尾上菊五郎の「日本俳優学校」を卒業。
1948
初代花柳錦之輔を、1965年、二代目花柳壽楽を襲名。
1991
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。
2003
芸術院会員に選ばれる。
2007年(88歳)、逝去。

社団法人日本舞踊協会副会長。
2007年1月7日永眠。行年88歳。
本名:青山次郎(じろう)。

祖父について、ある方が『昭和15(1940)年から続けている創作の振付は作品数にして200曲に近い。60年に余る長い舞踊生活の中で、古典の正しい継承と創作に注ぎ込んだ情熱には、ただ頭の下がる思いがする。これも先師花柳壽應の薫陶と、六代目尾上菊五郎の俳優学校で身につけた実践的教養が原動力になっていると思われる。古典と創作とを均衡を保ちながら先へ進めるのは生やさしい仕事ではない。これを可能にしているのは謙虚な内省と進取の気性である』と書かれています。
また『「踊る」「教える」「つくる」のうち、どれか一つでもすぐれていれば日本舞踊家としてやっていくことができる。その点、あなたたちのおじいさんはそのどれをもバランスよくもっている稀なひとだ』といいます。
ほんとうにそのとおりで、祖父壽楽は仰ぎ見るような存在でした。
4歳になるころから踊りを教えられてきました。祖父に一貫して言われてきたのは「行儀よく踊る」ことだったように思います。踊りの「行儀」とはなにかを、ひとことで表現できませんが、いまは「教えられたことをていねいに踊る」、べつの言い方をすれば「(カラダが動くからといって)よけいなことをしない」ことだろうと思っています。

photo_juraku2.jpg

花柳 壽楽(二世)アルバム
写真をクリックすると拡大されます

隅田川.jpg
釣狐.jpg
土蜘.jpg







リンクバナーじゅらく.jpgリンクバナーじゅらく.jpg

リンクバナーのりゆき.jpgリンクバナーのりゆき.jpg